枯山水の会5月例会の報告

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 枯山水の会の5月例会はいつもの会場神戸大学東京六甲クラブで12名の参加のもと開催されました。今回は39回生の大島隆氏に「商社論」と題して総合商社について私論を展開して頂きました。大島氏は商社マンとして世界各地でご活躍され、インドネシアには10年駐在された経験から大変興味深いエピソードを交えてご披露いただきました。               (前田 記)

総合商社私論要約                              大島 隆

T)歴史:源流―戦前―戦後

  ・維新後の開港地(横浜他)は外国人貿易商が支配、日本人は彼らへの売込商、引取商であった。一方発足したばかりの明治政府は文字どおり借金まみれ、ほっとけば植民地にされてしまうとの恐怖心にあおられ、売れるものは何でも売って正金を稼がねば、が国策となった。担い手は三井組国産方(1876年三井物産となる)、大倉組、森村他、輸出品は政府米、国有三池の石炭、富岡の生糸、輸入は軍向けのラシャが主であった。

   当初は超高給のお雇い外人に頼ったがその後洋行帰りの官員をスカウトしたり、学制の整備と共に高商、慶応等の高学歴者を大量に雇い入れた。

    まず三井物産が総合商社への発展を見せ(1890年代)、追うように三菱各社の肝煎りで三菱商事が発足、第一次大戦中およびその後のブーム期に鈴木商店、久原商事他に加え、大阪の糸ヘン各社(戦中のブームは原綿輸入、綿製品の輸出である)も大躍進した。政府の後押し、極東という遠隔の地、経済の急成長、既に存在していた財閥等がその背景にある。1920年代日本の貿易の50%以上を彼らが担当していた。

 

  ・中国侵攻、第二次大戦中は、中国、満州等で相当甘い汁も吸ったが、基本的には軍の下請け。敗戦ですべて壊滅した。

 

  ・戦後は物産、商事の強制解散から始まったが、1950年朝鮮戦争で一挙に様変わりとなり両社不在の間に関西系糸ヘン、一歩遅れて鉄鋼系各社が吸収合併を繰り返し躍進した。

   1954年の商事大合併、1957年の物産大合併を経て10大商社時代となるが、再編成の波は景気悪化の度に激しくなり、1961年物産が木下を吸収、67年には兼松と江商が合併、翌68年には日商と岩井が合併、また1977年には伊藤忠が安宅を合併した。

   工業の巨大化と共に銀行を中心とするグループ化が進んだ。

   日本経済の大躍進、しかし輸出の主力は低技術品であったことがこのうねりの外的要因、内的要因としては、いち早く企業集団のオルガナイザー機能、金融機能を発揮できたこと、海外の情報収集網を整備できたこと、近代的経営管理システムを樹立したことがあげられよう。

   この時代、輸出入の50%を10大商社がまだ担当していた。

  ・早くも1961年には問屋不要論が出た。巨大化したが人材・組織が追い付かないメーカー群に代わりはできず消滅。15年後には業績不振もあり商社冬の時代と言われたが、経済回復と共にこれも消滅、1990年以降の商社不要論(この頃貿易に占める割合は10%に低下)は手強かったが再編成(日商とニチメンが合併し双日に、トーメンを豊通が吸収)で乗り切った。文字どおりなかなかにしぶとい。

 

  ・21Cに入り7社(商事、物産、住商、伊藤忠、丸紅、豊通、双日)は、内部組織を柔軟に何時でも高収益が見込まれそうな分野に注力できるよう改革に着手(成功も失敗もある。子会社群を数百社持つところもある。)すると同時に、バブル破裂時の不良債権の処理も一巡、一方資源価格の高騰もあり、各社順風のように見えるが、仕事のスケールの巨大化と共にリスクも巨大化、成功すれば良い(商事のサウジ石化、住商のシンガポール石化)が、失敗の例も多い(物産のイラン石化、安宅のアラスカ精油所等)。

   一方内部監理のホコロビも時に顔を出す(物産の車排気ガス浄化装置、住商の銅相場での大ケガ)、汚職も同様である(ロッキード/丸紅、ダグラスグラマン/日商、ムネオ/MBK、海外では??)

 

U)今や戦後躍進の外的要因はほとんど消滅し、一方know-howの属人化が進み、売り買いの現場を知らぬ若手の内部官僚化という逆風もあるが、事業分野分散によるリスク許容力、収益機会を発見・実現する力、資金力、環境変化への適応力はあなどれず、相変わらずしぶとい。

   但し7社は多すぎる。またまた再編の嵐が吹くのではなかろうか?

   うち1社だけでも日本に拘泥せず、グローバルジャイアント企業に変身できるのか?

   或いは今の順風は資源高へのバクチが当たっただけ(1015年前の人がエライ)で、一瞬の幻か?

   各社各々に次の飯の種探しに大汗の筈と思われる。

 

V)諸外国では同様の企業形態はあるのか?/ない。

  英:16C18C特殊会社による植民地経営の独占があり、その後植民地をベースとする多国籍商社が続出したが、第一次大戦後拡大が止み、第二次大戦後株主が機関投資家になったことで選択と集中を強いられ、今や香港ベースのJardin MathiesonSwireくらいしか残っていない。ベースが植民地であり、本国に基盤となる企業グループがなかった為であろう。

 

  独:元々輸出主力が高技術とブランドに裏打ちされたキカイ故、メーカーが直接輸出。

  米:でっかい国内市場があるので輸出志向が低い。1982年輸出振興策を取ったが雲散霧消。

  韓:75年に日本のそれの如き総合貿易商社の指定制度を作り、三星等巨大財閥の窓口として輸出に貢献したが97年の通貨危機でポシャリ、今も輸出窓口役に止まる。輸入には関与できていない。

 ・中印にこれから巨大商社ができるだろうか?

 ・「外国人と交渉し商売をし、或いは外国の法律やルールを学ぶ(それも外国語で・・・当たり前です)なんていうジャマくさい仕事は自前でやりたくない、専門家に任せておきたい。

   況や海外出張した時、その先々でちゃんと面倒見てくれる人がいないなら、出張なんて誰がするもんか。」という日本人の深層心理にある弱気ないし偏見は文字どおりほとんど日本人だけのものではないだろうか。

   これが巨大商社の存在を不可欠としている日本の一面と思われる。